現在の代表であるPoul Ivan Kristensen(ポール・イヴァン・クリステンセン)の父であるSvend Otto Kristensen(スヴェンド・オット・クリステンセン)が「ケアロップ・テキスタイル・ファクトリー」を創業したのは今ら50年以上も前の1950年、彼のベッドルームにあった木製の織機、たった一台で始めました。
貧しい家庭に生まれたスヴェンド・オット・クリステンセン、母から譲り受けた遺産はたった一冊の「スウェーデンの織物」という本だけでした。その本に好奇心を頂いたスヴェンド・オットは近隣に住む織物好きな人達の助けを得ながら最初の木製織機を購入し、彼が唯一使えるスペースであったベッドルームに設置しました。これが、ケアロップ・テキスタイル・ファクトリーの始まりです。
第二次世界大戦が終わったすぐ後の時代、いろいろな物資の不足が深刻化していました。そんな中、彼は本業の傍らサイドビジネスとして、購入した木製の織機でタオルを織りそれを販売する仕事を始めました。物資が足りない時代、販売することには何ら問題はなかったのですが、作る原料、特に織糸の入手は困難を極めました。
隣町に資材を仕入れに行くということがレアなその時代、彼は原料不足を打破するため、100キロも離れた大きな町、Aallborg(オールボー)へ資材の仕入れに出掛けました。木製のクロッグ(スリッポン)と木製の帽子をかぶった若い彼の旅姿は人々には滑稽に映っていたかもしれません。オールボーの中心街にあった大手綿糸資材会社の「The United Cotton Spinning Mill 」に着いた彼は必死に糸の不足を訴えました。その若い彼の訴えに負けて大手の資材会社は名も知らない彼に年に200キロから300キロの糸の供給を約束したのです。
副業として始めたタオル織り、そして販売が軌道にのり、彼は本格的にこの仕事だけで生計を立てていくことを決意しました。オールボーから戻ってから1年後のことです。ベッドルームに織機をもう一台増やし、そしてアシスタントを1名雇い朝昼晩と働き続けました。3年後にはベッドルームから出て4台の織機を揃え木製テントに移りました。その時の従業員は6名に増えていました。タオル織りから始まった会社はその頃までにテーブルランナー、エプロン、テーブルクロスを生産するまでに至っていました。
会社規模が大きくなり手狭になった木製テントを出て、1957年にケアロップ市アルムトフ町にあった集会場を買取りその場所を工場としました。1961年まで同じ場所で木製の手織機だけで仕事を進めたのですが1960年代に入り経済がよくなると同時に労働者の賃金も飛躍的に伸び始め、手織機での生産に陰りが見え始め、その結果コスト削減のため機械織機を導入するこになりました。
機械織機を導入したのはよかったのですが、機械に疎かったスヴェンド・オットはその機械の調整に苦労していました。その時15歳だった現在の代表であるポール・イヴァン・クリステンセンは父とは正反対に機械にめっぽう強く、機械の調整ということで父の仕事を手伝い始めました。その後ポール・イヴァンは1962年の「Herning Cloth Factory」(ヘニング・クロス・ファクトリー)での見習いを経て正社員として父のもとで仕事をするようになりました。
1960年代の半ばには木製の手織機が全て機械製の織機に変わり、1974年1月1日には創業者のスヴェンド・オット・クリステンセンは会社の全てのシェアを息子であるポール・イヴァン・クリステンセンに譲り渡しました。
1970年代半ばには約10台の機械織機に約10名の従業員を抱え、主にテーブルクロス、そして椅子生地を生産する会社へと成長しました。その後1990年代までには生産品目としてストールやカーテンを追加し、成長を続けました。
1992年に導入した最初のコンピューター制御の織機を皮切りに現在では15台のドイツ ドルニエ社製のコンピューター制御の織機を導入し同じ場所で生産を続けています。現在の従業員数は5名ほど、そして生産品目はカーテン、洋服生地、椅子生地、クッションカバー、テーブルクロス、そしてストールと多岐に渡るようになりました。
在庫は持たず、すべて受注生産という形で素早くそして柔軟性をもって顧客対応をすることを心がけています。現在生産しているものの中には顧客からの特別なカスタマイズも多くあり、移り変わる顧客のニーズに素早く対応することで成長を続けています。また、現在デンマーク国内で唯一存続する椅子生地を生産する生地会社として様々なデンマーク国内家具メーカーと協力体制を築いています。